Margarita =ぶろぐ枕草子=

銅像をどうぞ【鹿児島1泊2日・その2】

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鹿児島市内には、お国柄でしょうか、
幕末・明治の偉人が多いせいでしょうか、
各所に銅像が建ち、市井の人々を見下ろし励ましています。
今回の鹿児島旅でも、多くの像の写真を撮りました。
銅像なので、縦長の写真が大半で見難いでしょうが
お付き合いいただけると嬉しいです。
 
紹介文は大半はその横などにある案内板の表記を転用しましたが
大久保利通像は、雨で蒸れて見えなかったので
西郷隆盛像は、周辺に案内板が見あたらなかったので
ウィキペディアから引用させていただきました。
 




 
“若き薩摩の群像”
 
鹿児島中央駅前にある“若き薩摩の群像”。
幕末、イギリスに留学した薩摩の若人たちの像です。
 
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碑の由来1
 
 一八六三年の薩英戦争で、ヨーロッパ文化の偉大さを知った薩摩藩では、前藩主島津斉彬の遺志をついで、イギリスへ新納久修以下の留学生並びに外交使節団を派遣した。当時幕府は日本人の海外渡航を禁じていたので、甑島大島辺出張として、すべて変名を用いた。
 一行は一八六五年四月十七日串木野羽島浦を出航して、道中驚きの眼を見はりながら六十六日目の六月二十一日、ロンドンに到着。学生たちは、ロンドン大学に留学した。
 留学生と共に渡航した新納久修・五代友厚らは、イギリスで紡績機械を購入し、一八六七年五月鹿児島市磯に、日本最初の機械紡績工場、鹿児島紡績所を建設した。機械の据付けや操業指導のため、来日した英人技師たちの宿舎が、磯に現存する異人館である。
 更に松本弘安は、かつて二年間イギリスに滞在した経験を活用して、イギリス外務省当局にはたらきかけ、天皇のもとに統一国家日本をつくる必要を力説して、イギリス当局の理解を得た。以来イギリスの対日方針は一変し、フランスが幕府を支援するのに対して、イギリスは薩長倒幕派を支援するようになり、倒幕運動の進展に、重大な影響を与えた。
 また薩摩藩が、一八六七年のパリ万国博覧会に、幕府と対等の立場で出品することになったのも、彼らの働きの結果である。

 
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碑の由来2
 
 日本国内では薩長同盟の成立以後、幕府と倒幕派の対立が激化し、国内政局は大きく動揺したが、倒幕派の頂点に立つ薩摩藩当局は、派遣団からのヨーロッパ情報に、大きな力を得て、情勢を有利に展開した。
 留学生はその後、大部分の人が、アメリカやフランスに渡って留学生活を続け、帰国後明治政府に仕えて、留学の成果を大きく発揮した。鮫島尚信・吉田清成・中村博愛は共に公使となって外交界で活躍、田中盛明は生野銀山の開発に尽くし、畠山義成は東京開成学校長、森有礼は初代文部大臣となって、わが国文教の発展に尽くした。松村淳蔵はアメリカアナポリス海軍兵学校を卒業してわが国海軍の建設に力を尽くし、海軍中将となった。留学当初十三歳という最年少の長沢鼎は生涯をアメリカで送り、広大なぶどう園の経営とぶどう酒製造に新生面を開き、ぶどう王と言われた。
 また使節団の新納久修は家老のちの司法官となり、町田久成は内務省に出仕、五代友厚は大阪商工会議所を創設して、初代会頭となり、松本弘安は外務卿となって活躍した。
 このように、薩摩藩当局の勇気ある決断と若き薩摩の青年達の積極的熱意とは、日本の歴史を大きく転換させ、新生日本を建設する原動力となったのである。

 
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密航の手引きをしたのは、イギリス商人・グラバー。
留学生たちは以下の通り(カッコ内は数え年)。
新納久修(34歳)・町田久成(28歳)
松木弘安[のちの寺島宗則](34歳)・五代友厚(31歳)
名越時成(21歳)・吉田清成(21歳)
中村博愛(25歳)・市来和彦(24歳)
森有礼(19歳)・村橋直衛(23歳)
畠山義成(23歳)・鮫島尚信(21歳)
田中盛明(23歳)・東郷愛之進(23歳)
町田実績(19歳)・町田清次郎(15歳)
磯永彦助[のちの長沢鼎](13歳)
高見弥一(31歳・もと土佐藩士)・堀孝之(不詳・通訳)

 
続いては、銅像ではないのですが
石碑のある公園での風景です。
 
“西郷隆盛・従道誕生地”
 
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「大きくたたけば大きく鳴る。小さくたたけば小さく鳴る」と土佐の坂本龍馬を驚かせた、薩摩の「ウドメサア」(目の大きな人のこと)西郷隆盛の器量の大きさは、彼が生まれ育った下加冶屋町の郷中教育によって培われたといわれています。
一八二七年西郷は下級武士の家の七人兄弟の長男として誕生(海軍大臣を勤めた従道は三男)。貧しい生活の中で藩校造士館に通い、次第に下加冶屋町郷中の少年達のリーダーとして頭角を現します。鹿児島の町には独特の若者組織があり、町毎に区切られた郷中という単位で少年たちが集まり、厳しくしつけられるのです。
 西郷は十三歳のとき、右腕を負傷し武芸はあきらめましたが、その分勉学に励み、二才頭(にせがしら)として郷中の仲間の人望を集めました。西郷の指導者としての有能さは、この郷中から多くの偉人が育ったことからもうかがえます。
 十七歳で郡方書役助という地方役人となり、農村を回り、農政についての意見をまとめました。これが後に英明藩主といわれた島津斉彬の目にとまり、やがて日本を舞台に活躍する足掛かりとなったのです。
 
[西郷隆盛・従道生誕地周辺の偉人誕生地]
大山巌・伊地知正治・村田新八・井上良馨・東郷平八郎etc.

 
この誕生地には、不思議な石組みが置いてあります。
 
“西郷従道邸庭園跡庭石”
 
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◇寄贈までの経緯
 この庭石は、東京都目黒区の西郷従道邸庭園跡地が公園として整備されるにともない、平成十二年十二月、目黒区から、西郷従道にゆかりのある鹿児島市に寄贈されました。
 石は、伊豆石、伊予の石、紀州の青石の3種です。

 
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◇旧西郷従道邸庭園について
 明治七年、従道は、兄隆盛の隠棲所を営む目的で、目黒の地所を購入しました。西南戦争による隆盛の死によって、当初の目的は果たせませんでしたが、明治三三年までは西郷家の別邸として、それ以降昭和十六年までは、本邸として使用されました。
 庭園は、大きな池と斜面の滝を中心とした広大なもので、明治期を代表する庭園として高い評価をうけていました。

 
西郷隆盛・従道誕生地のはす向かいには
鹿児島市立『維新ふるさと館』があり、
その裏手には、西郷隆盛の号・南洲にちなんだ
『南洲橋』がかかっています。
 
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この南洲橋のかかる甲突川を北へ遡り、
電車道へ出ると、
大久保利通さんが風にフロックコートを靡かせています。
 
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“大久保利通像”
 
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◇余録〜ウィキペディアより
かつての盟友西郷隆盛が挙兵したときは、伊藤博文に対して「朝廷不幸の幸と、ひそかに心中には笑いを生じ候ぐらいにこれあり候」と書き送った一面があった。しかし、西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が……」と言った様だ)。また、暗殺された時に生前の西郷から送られた手紙を持っていたとか、暗殺の直前に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って西郷の伝記を書くことを人に勧めたりしていたともいう。暗殺前、前島密に奇妙な夢を見た事を話しており、それは「西郷と自分が崖の上で争っているうちに揉み合って落ち、自身の頭蓋骨が割れて脳髄がひくついていた」という内容だった。

 
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大久保は西郷を殺し、西南戦争で薩摩を滅ぼそうとした張本人として地元での評価は高くない。近年まで地元への納骨すら避けられていたというからよっぽどのことであろう。現在鹿児島市には大久保の銅像があるが、西南戦争百周年の頃に県外から「なぜ大久保の銅像がないのか」と言われて半ば渋々作ったものだという風説がある。藩閥政治から距離を置いていた薩摩に対しその後も長く隠然たる権力を保持した長州派のイメージ操作にも一因があるとも言われている。
 
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徹底的に洋風の生活にこだわったという大久保さん。
下級の生まれで草履を履けなかった坂本龍馬が、
ブーツを愛したのと同じで
大久保さんの洋風へのこだわりは、
出自にコンプレックスがあったせいなのでしょうか…
 
続いては、最近人気急上昇で
見物人もとみに増えた、小松帯刀像。
 
“小松帯刀像”
 
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小松帯刀は天保六年、喜入領主肝付家の三男として生まれ、二十歳で吉利の領主小松家の養子となり、小松帯刀と名を改めました。子供の頃から学問や武芸にすぐれ、二七歳で家老となり、西郷隆盛や大久保利通などを重要な役目につけました。寺田屋事件、生麦事件、薩英戦争を乗り切り、薩長同盟を結ぶなど明治維新に向けて活躍しました。維新後も外交官など要職につきましたが、三四歳で亡くなりました。
 
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この小松帯刀像は、慶応三年に十五代将軍徳川慶喜が、二条城に諸大名を集めて、政治の権力を朝廷に返還(大政奉還)すべきかどうかを問うたとき、薩摩藩の城代家老であった小松帯刀が「大政を奉還すべき」として他藩にさきがけて記帳したときの様子をイメージして造られたもので、三公像(島津斉彬、島津久光、島津忠義)の建つ、照国神社を向いて建立されています。
 
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小松帯刀像の正面の小高い場所に、
東京・上野とは全く違った姿の西郷隆盛像があります。
 
“西郷隆盛像”
 
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◇人物〜ウィキペディアより
西郷吉兵衛隆盛の長子。名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったからである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門などの変名も名乗った。

西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争(北越戦争)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。

薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。復帰するが、新藩主の実父で事実上の藩主の島津久光と折り合わず、再び、沖永良部島に流罪にあう。しかし、家老小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。勝海舟との降伏交渉に当たっては、新政府の後ろ盾となっていたイギリスが、江戸湾を拠点とした貿易に支障がでることを恐れて江戸総攻撃に反対したため、西郷隆盛をはじめとする新政府はイギリスの求めに応じ、江戸総攻撃を中止した(江戸無血開城)。

 
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その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。

位階は正三位。功により、継嗣の寅太郎に侯爵を賜る。

 
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◇銅像〜ウィキペディアより
鹿児島市に立つ、郷土の彫刻家安藤照作による銅像は軍装(陸軍大将)である。

上野公園の銅像に対する西郷夫人糸子の発言については、銅像の顔が本人に似てない事と解釈する説もあるが、昭和50年代に鹿児島県下で小学生に無料配布されていた西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、亡夫は多くの人間の前に正装ではなく普段着で出るような礼儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説している。当時故人を顕彰する銅像の多くが正装で威厳に満ちたものだったのに対し、西郷の銅像は明治維新の元勲のものとしては、あまりに庶民的に過ぎるものである。一時は朝敵とされた西郷の名誉回復の場でもあった銅像除幕で、予想とあまりにかけ離れた服装の銅像に対する驚きと落胆の気持ちの反映であった。当初は皇居内に建てる案もあった西郷像の建造当時、朝敵となったことによる反対意見が根強かったことは無視できない。上記大山巖の言い分も、まだ西郷への反感を持つ政治家が多かった時代、明治政府の官位による正装をさせるわけにはいかなかった事情が背景にあったと考えられる。時代が下って鹿児島市に建てられた銅像が、陸軍大将の正装で直立不動の姿勢であるのは、西郷の名誉回復という観点からすれば、未亡人が本来期待した姿に近いと考えられる。

 
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西郷さんの銅像の周りには、金網などはないものの
植込みの周りは小さな堀が有り、
近くには寄れないようになっています。
西郷さんの孤高の精神・生き方に倣っているのかな?と
ふと思いました。
 
他にも、島津三公像のある照國神社とか
桜島にはあのN渕Tさんのモニュメントとか
鹿児島空港には
羽織袴姿で、市内とはまた雰囲気の違う西郷隆盛像とか
まだまだ鹿児島には見てみたい像がたくさんあります。
皆さんも銅像めぐりのくくりで、
鹿児島を旅されるのはいかがでしょう?
きっと楽しいですよ(o^-^)b
 
【鹿児島1泊2日・その3】に続きます。
 
by mar_beads1010 | 2008-10-05 12:37 | 出ある記=BLOG版=
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大層なタイトルですが、日々の細々したことを簡単に紹介出来たらいいなと思います。
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