Margarita =ぶろぐ枕草子=

黒船騒動と松下村塾

吉田松陰続きです。
 
松下村塾で松陰が指導をしたのは、
なんと約3年(@_@。!!
…もっと長いのかと勝手に思っていました。
松陰の生涯は僅か三十年。
いくら人生のスタートが早いとは言え、
疾風のように、流星のように
ほんの一瞬を駆け抜けたんですね…
しかし、その短い期間にあれだけの面々に対し
“師”として影響力を十二分に与えたなんて、
ちょっと想像がつかないですよね(>_<;)
 
【萩市・松陰神社内にある“松下村塾”遺構】
黒船騒動と松下村塾_f0105886_0214451.jpg

 
【松下村塾内部・幽囚室】
黒船騒動と松下村塾_f0105886_0231151.jpg


 



 
黒船騒動。
…ここらでちょっと
龍馬と松陰と黒船の時系列を整理したいと思います。
 
嘉永六年 正月     松陰・十年間の遊歴の許可を得て萩出立
  〃  四月     龍馬・江戸到着
  〃  五月末頃   松陰・江戸到着 佐久間塾へ
  〃  六月三日   ペリー艦隊 浦賀到着
  〃    十二日  ペリー艦隊 浦賀を離れる
  〃  十月下旬   松陰・露船へ密航を企て長崎入り
            しかし露船は既に出港
  〃  十二月一日  龍馬・佐久間塾入門
  〃  十二月下旬  松陰・江戸に戻る
嘉永七年 正月十二日  ペリー艦隊・帆船一隻 浦賀到着
       十四日までにペリー艦隊・全七隻が浦賀に揃う
  〃  三月三日   日米和親条約締結
  〃  三月二十七日未明 松陰・艦隊旗艦ポーハタンへ
              密航を断られ、下田柿崎にて自首
              その後江戸伝馬町牢獄へ
  〃  四月六日   佐久間象山が江戸伝馬町牢獄へ
            佐久間塾閉鎖
  〃  五月二十五日 下田条約(和親条約細則)締結
  〃  六月一日   ペリー艦隊・下田を去る
  〃  六月二十三日 龍馬・土佐へ帰国
  〃  十月二十四日 松陰・萩野山獄へ
(年末に安政元年へ改元)
 
龍馬の第1回目の江戸遊学は、
黒船に会うために行ったみたいなものだったんですね。
もし、龍馬と吉田松陰の“出会い”があったとしたら、
嘉永六年年末から七年春までの短い期間…
「会った事があった」「影響を受けた」と思ったほうが
浪漫があるな~って思うけど…
皆さんはどうですか?
龍馬は松陰に会ったと思いますか??
 
私は、安政の大獄で吉田松陰が処刑されたのは、
「黒船で密航しようとした、幕府の禁法を犯したから」だと
ず~っと思ってました。
教科書ぢゃ、キーワードしか分からないし。
でも、そうじゃない。
 
安政二年十二月二十五日 松陰・野山獄出獄
            実家(杉家)にて禁錮
 
「密航は重罪だが、未遂で終わっているので」ということで、
松陰は入牢を解かれ、実家へ戻っています。
こののちに杉家「幽囚室」にて、松陰の“松下村塾”が育ち始めます。
もともと松下村塾とは、松陰の叔父・玉木文之進が
天保十三年に始めた私塾で、
幼少期の松陰もそこで学んでいます。
 
再び、龍馬・松陰、
そして松下村塾と安政の大獄の時系列。
 
安政三年八月二十日   龍馬・二度目の江戸遊学
安政四年        松陰・叔父の玉木文之進が開いた
            「松下村塾」を引継ぐ
            六畳一間の幽囚室より
            古家を移築改造した一屋へ(杉家敷地内)
安政五年四月      井伊直弼・大老就任
  〃 六月十九日   未勅許のまま日米通商修好条約締結
  〃 八月      戊午の密勅
  〃 九月三日    龍馬・二度目の江戸遊学より帰国
  〃 九月上旬    安政の大獄始まる
            その後松陰は萩野山獄へ(松下村塾閉鎖)
安政六年六月初頭    松陰・幕命により江戸鑑送
    七月九日    評定所にて松陰の吟味始まる
    十月二十七日  吉田松陰・江戸伝馬町獄舎にて斬罪
 
吉田松陰の幽囚室に、松陰を慕って人が集まり始めたのが、
安政三年の初頭だったとしても、
安政五年の年末には既に松陰は野山獄の人…
わずか三年に満たない期間なのに、
松下村塾門下生としては、
久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山縣有朋、
前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、その他
尊皇攘夷を掲げて京都で活動した者や、
明治維新で新政府に関わる人々を育成しました。
「奇跡」とか「運命」とか、
なんか陳腐な言葉にしかならないけど、
この時の松下村塾って、そんな存在だったのでしょうね。
 
ここで注意点なのですが、
桂小五郎は松下村塾の塾生ではありません。
松陰二十歳の頃、藩校明倫館時代(嘉永二年頃)に
兵学の教えを受けていることで、師弟だったわけです。
松陰と小五郎は僅か四歳しか離れていないので、
桂さんは案外、松陰のことを「師」としてよりも
“熱い先輩”的目線で見ているのかも。
江戸で剣術修行中だった桂小五郎は、
松陰の“黒船密航”の企てに強く協力を申し出たのだそうです。
萩・松本村ではなく、江戸の“吉田塾”の塾生だったのでしょう。
 
実際、松陰の教授法は、
その当時では考えられない画期的なもの。
一方的に師匠が弟子に教えるのではなく、
松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、
文学だけでなく、時勢や世界情勢を語り合い、
時には登山や水泳もおこなうという、
今で言う“生きた授業法”だったんだそうです。
 
ぢゃぁ、その杉家周辺に「禁錮」されていた松陰が
なんで“安政の大獄”にひっかかっちゃったの?
っていうのは、また次回(^o^;)
長くなってすみませんm(__)m
 
by mar_beads1010 | 2010-02-07 00:25 | 『龍馬伝』な日々
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大層なタイトルですが、日々の細々したことを簡単に紹介出来たらいいなと思います。

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